「関心」と「善の心」から始まった物語






白花油の創始者、顔玉瑩社長は、1900年、中国の福建省で生まれました。福建省州の海澄県出身で、同じ一脈の顔氏の家系は、今でも多くの親族が、金門、アモイなどの地に散らばって住んでいます。顔社長は、顔家の三男として生まれ、父親は漢方医でした。顔社長は、7歳の時にアモイを離れ、この年代の多くの歴史的人物が同様に、父親と一緒に南洋へと旅立ちました。
顔玉瑩社長は、シンガポールに移った当初、下っ端の労働者から身を起こし、行商人をやったこともあります。一般市民の生活の苦しみを身をもって味わい、顔社長は、その勤勉さと節約の精神から、後に自分で経営する事業をもつことができるようになりました。 最初は、ペナンで飴工場を開設し、ゴムの事業を経営し、シンガポールでも小さな商売を始めました。第2次世界大戦争前に、ある程度の成功を収めていましたが、多くが戦火で破壊されてしまいました。第2次世界大戦の終了後、顔社長はシンガポール華僑界から代表として推薦され、南京での抗戦勝利の祝賀に向かい、当時の蒋介石総統と初めて会う機会を持ちました。その後、政府が台湾に移り、顔社長の台湾との離れがたい縁が結ばれ、毎年蒋介石の誕生日には台湾を訪れるようになり、台湾の各種の慈善事業、国の祝賀活動に参加しました。また、台湾で多くの投資を行い、政府から何度もメダルや額、勲章などを授かり、当時の政府高官と度々会見しました。後に、顔社長は台湾に工場を建て、白花油などの製品を生産するようになり、シンガポール、香港などの白花油企業と相互に輝き合いながら、台湾の地元の一員として、台湾初の国産生薬オイルとなり、華人世界で有名な「国際ブランド」となりました。

物語は1920年代の南洋に遡ります。当時、熱帯のシンガポールやマレーシアの衛生環境はよくなく、特に蚊やマラリアの問題が、当地の住民や労働者を悩ませていました。医薬の発達していなかった年代において、暑気あたり、外傷、虫刺されなどの、臨時で緊急のよくある小さな病気によって、多くの人が、生活の品質と健康の影響を受け、悩まされていました。顔玉瑩社長は、当時20代の青年で、下っ端で自分の将来の事業のために努力し、奮闘している真っ最中で、これらの問題を身をもって体験していました。顔社長の父親は漢方医であったため、顔社長は先祖の訓を受け継ぎ、漢方医薬の薫陶を受け、心の中では、天然植物を利用して、これらの人々を悩ませる小さな病気を解決したいと思っていましたが、長年の研究と試験を経て、1927年に、ミント、カンファー、ラベンダー、ユーカリなどの天然植物を利用して製造された薬用オイルと軟膏の、極めて高い効果を発見しました。主な効果は、風邪のための頭痛、暑気あたりの眩暈、虫刺されなどの日常的な病気であり、薬用オイルは、特に熱帯地域に住む人に適していたため、軟膏の発売は遅れました。

当初、この薬用オイルと軟膏は、いずれも自分で使うためのものであり、周囲の友人や親戚に配って使ってもらっていました。確実な効果があるため、人気となり、顔社長の元に取りに来るようになり、中でも薬用オイルが最も人気がありました。製品には確実な効果があり、人々の日常生活の中でよくある小さな病気を解決するだけでなく、健康の維持にも役立ちました。顔社長はより多くの人に使ってもらうため、大量生産を考え始め、また求めやすい値段で、より多くの人に役立ててもらおうと考えました。

顔社長の製造した薬用オイルの匂いは「水仙」のようであり、顔社長の夫人も「水仙の花」(南洋では、白花とも呼ばれています)が好きだったため、顔玉瑩社長はこの薬用オイルを「白花油」と名づけました。各種の日常的な小さな病気にすべて有効であったため、頭に「万応」の文字をつけ、正式名を「万応白花油」としました。「万応万霊の白花の香りのする薬用オイル」の意味があります。1935年には、ペナンとシンガポールで、「白花」の商標を登録し、同時にシンガポールに工場を設け、生産を始めました。顔社長は、この「人を救い、苦しみから解放する」ための良心的な事業に専念するため、他のすでに成功していた業務を終了しました。


1951年に、「万応白花油」は、香港で工場を設立しました。「白花油」の香港での生産が始まった後、顔玉瑩社長はシンガポールの工場を閉鎖しました。1962年には、台湾で新工場を設立し、「万応白花油」、「白花膏」、「可白歯磨き粉」などの製品を製造し、当時、シンガポール、香港、台湾の三地で人気の製品となりました。
その後、1970年代には、イギリス政府が、品名の「万応」に異議を唱え、香港の「白花油」は、「和興」白花油と改名されました。台湾では、顔社長が当初名づけた「万応白花油」の名前が維持されました。白花油は2つの異なる品名をもつ白花油となりましたが、その処方は同じであり、顔社長が人々の生活の中でよくある病気を解決するために生み出した「白花油」の当初の処方は、80年の歴史を経た今でも、変わっていません。


顔社長は、成功後も、自分が下っ端時代に知った、人々の苦しみを忘れず、慈善と社会への奉仕の仕事を行い続けました。「慈善皇后」の活動によって、白花油は知名度を高め、テレサ・テン、張hなどの有名なスターも、「白花油慈善皇后」となったことがあります。同じく一般市民の出身として、社会への恩返しを忘れなかったため、人々に讃えられました。当時、警察ラジオ局の雪中送炭という番組で、顔社長は全力で支持を行い、何度も自ら布団や慰問金を届ける仕事を行い、人々を喜ばせました。1977年12月29日、顔社長は台湾地区を襲った台風の募金活動を熱心に行ったため(注:1977年の台風4号と台風5号は、1週間のうちに台湾の南部と北部を襲い、大きな災害をもたらしました)、総統府に表彰され、「義行可風」の額を賜っただけでなく、その事跡は、国史館の史冊に記載されました。現在すでに発せられた400以上の表彰令の中で、初めて華僑に与えられた表彰令であり、突出した貴重なものであるといえます。他にも、台湾での事跡としては、新店大仏寺の開山奠基(前台北市長黄啓瑞と共同で護持)や、台湾大学病院の小児心臓病患者基金の充足のほか、毎年の冬令救済などがあり、あちこちに顔社長の台湾の人々に対する思いやりの心が表れており、各方面から敬われています。



白花油が発明されてすでに 80 年近くの時間が過ぎていますが、一般の人のために、便利で経済的な方法によって、日常の小さな病気に対応するという顔社長の考え方は、今日の基準から見ても、非常に実際的なものです。白花油は、複合エッセンスオイルの薬品であり、アロマセラピーと天然素材の特色を結合した、安全で有効、かつ経済的な方法であり、皆様に愛されながら今日に至っています。

顔玉瑩社長の慈善と社会への恩返しの理念も、後継者に受け継がれ、社会奉仕の仕事に熱心に参加しており、今日でも、募金や寄付、チャリティーなどの形式で、様々な慈善機構や社会組織を支持しています。これは、「関心」と「善の心」から始まった物語であり、「白花油」の成長と共に、綴られ続けてきた物語なのです。


ホワイトフラワー・インターナショナルの創始者、顔玉瑩社長の思いは、慈善事業と社会責任を自ら行うことです。特定の社会福祉団体に長期的に協力し、政府や民間の社会福祉組織が発起した災害救助や慈善活動に参加すると同時に、各種の奨学金の計画も行い、各学校のサークルの申請を受け、薬品やその他の資源を提供しています。また、当社は長年にわたり伝統を守り、製品を慈善機構や社会福祉組織に寄付しており、社会の一員としての責任を果たしています。





 
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